18世紀前半、清朝とチベットの関係とは?
チベットは中国の藩部だった
18世紀の中国(清)には18の省があり、その外にはチベットをはじめ、モンゴル・新疆(しんきょう)など「藩部」と呼ばれる地域があり、その外側に朝鮮やベトナムなどの朝貢国がありました。
ただし、18世紀の清は、チベットを直接支配していたのではありません。清にとってさらに重要な地域はモンゴルでした。かつてモンゴル民族が中国を支配していた時代(元)があるからです。モンゴルはチベット仏教を信じていたので、その最高位にあるダライ・ラマをめぐる諸問題の発生はモンゴルの介入を招き、清朝にとって統合を危うくする大問題だったのです。
モンゴルに影響を及ぼすため
多民族国家である清では、漢民族の皇帝としてだけでなく同時に満州人の首長であり、モンゴル族の「汗(かん)」と呼ばれる最高位であり、チベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという顔を同時に持っている必要がありました。これによって多民族国家である清という巨大な国を統合できたのです。中でも清帝国をまとめるために重要だったのが、チベット仏教です。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければなりませんでした。
失われた領土を回復?
19世紀になるとヨーロッパやアメリカなどの国々が東アジアに押し寄せてきて、清朝もチベットもその対応に追われたので、両国の関係を取り結べなくなっていました。
20世紀、中国は中華人民共和国となりました。そして1956年にチベットで独立を訴える動乱が起こりましたが、この動乱を人民解放軍が武力で鎮圧し、ダライ・ラマはインドに亡命しました。中国は現在もチベットの支配を続けています。現在の中国政府は歴史を遡ってチベットの支配を正当化しようとしていますが、18世紀前半、清朝とチベットの関係は「近代国民国家」概念とは次元の異なるものであり、それが現在のチベット問題に大きく影響しているわけです。
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先生情報 / 大学情報
鳥取大学 地域学部 地域学科 国際地域文化コース 教授 柳 静我 先生
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