江戸末期、開港を迫ったロシアは、実は日本に興味がなかった?
東西冷戦に阻まれた日露関係史の研究
幕末の日本とロシアの関係史は、これまで研究者がほとんどいなかったテーマです。東西冷戦中は、ロシアの方針で、外国人がロシアの史料を調査することができませんでした。日本の史料だけではロシア側の事情がわからず、実際はどうだったのかを知るためには、どうしてもロシアの史料を見る必要がありました。冷戦崩壊後はそれが可能になりました。それでもロシア外務省の史料の閲覧は厳しく制限されていたので、ロシア海軍省などさまざまなところにある史料を発掘しながら研究は進められてきました。
日本の歴史に影響したアラスカの存在
ロシア側の史料を分析し、少しずつ幕末の日露関係の実像が浮かび上がってきました。例えば、江戸時代の後期にロシアが日本にやってきたのは領土的な野心があったからだ、と説明されてきました。しかし、それは間違った見方だということが分かりました。ロシアは、日本にあまり興味をもっていませんでした。ロシアにとって重要だったのは清国でした。それでは、どうしてロシアは日本に来たのか? それは、アラスカ(ロシア領アメリカ)が大きく関係していたのです。当時、アラスカはロシア領でした。ロシアはアラスカに物資を運ぶための寄港地として日本の港を使いたかったのです。
いろいろな国の史料を読めば日本史の解釈が変わる
ロシア外務省は、1853年に派遣したプチャーチンに「近々アメリカのペリーが日本を開国させるだろうから、その恩恵をロシアも受けられるようにしなさい」と指示しました。そして、このプチャーチンが日本に開国を求めた書翰(しょかん)にも、ロシア船がカムチャッカ半島やアラスカに行くために日本に寄港する必要があるのでそれを許可してほしい、と記されていました。これは、日本側の史料だけを見ていてもよく分かりません。日本の史料も、ロシアの史料も、場合によってはアメリカやイギリスの史料なども分析することで、今後もさまざまな史実が明らかになるでしょう。
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先生情報 / 大学情報
佛教大学 歴史学部 歴史学科 教授 麓 慎一 先生
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