儒学がもたらした日本人への影響を九州北部から探る
近世まで重用された儒学
5世紀頃渡来人によって持ち込まれた、孔子の思想を基礎とする「儒学(儒教)」は、古代・中世をへて江戸時代になると教育に重用されました。地域ごとに藩校(武士の子弟が通う学校)や(庶民のための)寺子屋・私塾が開かれ、その教育体系は幕末まで続きました。明治維新によって日本の体制は一新されましたが、教育内容はすぐに刷新されたわけではなく第二次世界大戦前まで継続し、明治以降の日本人の考え方にも影響を与えたと考えられています。
江戸時代後期には異学とされた学派も
こうした儒学ですが、思想そのものの扱われ方は時代により変化しています。江戸時代後期には、老中・松平定信の「寛政の改革」による学問統制、「寛政異学の禁」が行われました。「孝」を重んじる倫理感を説く儒学には学派があり、寛政異学の禁では、身分や秩序を重んじて統治する「朱子学」のみを正しいとし、それ以外の学派を「異学」として取り締まったのです。そうした中、反朱子学を貫いた儒学者も存在します。九州北部には、福岡藩の儒学者・医学者で学問所を開設し、多くの門下生を輩出した亀井南冥(なんめい)がいました。弟子の多くが明治以降も活躍し、大きな功績を残していますが、自宅が火災に遭ったことから、関係資料はほぼ焼失したと見られています。それでも弟子の子孫の住居などで亀井家に関する資料が見つかる可能性は高く、今後、古文書や歴史的資料の新発見により研究が進むことが期待されています。
九州北部の教育史から日本思想史へ
儒学の日本への影響を探るうえでは、江戸時代までの儒学の変遷と、明治以降の教育体系がどのように変わっていったのかについて、より深い検証が必要です。寛政異学の禁が行われる以前、福岡藩では朱子学と反朱子学(徂徠学)の2つの藩校があり、これは全国的に見ても珍しいケースとされています。こうしたことからも、九州北部地域の教育の歴史を探究することは、日本思想史の背景に新たな視点をもたらしてくれるはずです。
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久留米大学 文学部 国際文化学科 教授 吉田 洋一 先生
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