「限界」とは、どこにあるのか
新幹線の限界説
1964年に東京-新大阪間で開通した東海道新幹線の、開業当初の最高速度は時速210kmほどでした。新幹線はその後、列車本数を増加したり、山陽新幹線が博多まで開通したりと発展を遂げましたが、運行時の最高時速は上がらないままでした。当時の国鉄内部に「新幹線の最高速度は時速300km程度」という限界説があったのです。
技術上の問題ではない限界説
文献や元国鉄職員へのインタビューを通じて、当時の限界説がどのように生じたのかを調査した研究があります。そこで聞かれたのは「根拠を確かめたわけではないが、直感的にそのように考えられて受け入れられていた」という声でした。さらに文献からは、この主張をもとにして、さらなる高速度での運航を目指すには、同時期に研究が始められた「次世代のリニアモーターカー」の開発が必要だと結論付けられていました。
一方で、国鉄内の研究所では基礎研究が進み、1979年に試験車両で最高時速319kmを記録しました。技術的には限界説を突破したものの、運行速度を上げるには、さらに2つの大きな問題がありました。
イノベーションを阻害するもの
問題の1つは、走行時の騒音を中心とする「環境問題」です。沿線の住民から訴訟が起きて、国鉄内では訴訟対応と騒音対策の技術開発に経営資源が注がれました。もう1つの問題は「労働組合問題」です。国鉄の労働組合によるストライキなどの影響で運行遅延が常態化していました。この状況で速度を上げて所要時間を短くするようなダイヤ改正は、さらなる遅延につながると考えられたため、所要時間を短縮するような速度向上は進みませんでした。
その後、1987年の国鉄民営化で労働組合は解体されて、訴訟も和解したことで速度向上が進んでいきました。技術が進展しても、当時の社会的背景やさまざまなステークホルダーの意向によってイノベーションが阻まれたり、打開されたりした例があります。これらの分析は、経営理論の研究テーマの1つでもあります。
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