秀次は、秀吉に切腹を命じられたのか? 隠された歴史の真実とは
なぜ秀次は切腹したのか?
戦国時代を終わらせ、天下統一を果たした豊臣秀吉の晩年の汚点とされているのが、1595(文禄4)年7月15日に高野山で起きた「豊臣秀次切腹事件」です。側室・淀殿に男の子が生まれたため、甥(おい)の秀次が邪魔になり、秀吉が追放・切腹を命じたというものです。また秀次の妻子30数名も処刑されました。しかしこの事件について、「秀吉が切腹を命じた」という説が本当に正しいのか、最近になって疑問が持たれています。
秀吉は、秀次を高野山で生かしておくつもりだった
通説では「秀吉への謀反の疑いをかけられた秀次は、秀吉により高野山へ追放され、切腹を命じられた」とされています。しかし『兼見卿記』(かねみきょうき)や『言経卿記』(ときつねきょうき)などの書物には、秀次は自らの身の潔白を証明するため、自発的に高野山へ赴いたことが記されています。さらに秀吉は、食事の支度をする使用人を置いてもよいと許可を出しており、秀次を生かしておく心づもりだったことがわかります。
また切腹については、通説では「本来、打首獄門となるところを、無実なので切腹させられた」と解釈されてきました。しかし、のちに妻子など一族が公開処刑されたことを考えると、秀吉が秀次に「名誉ある死=切腹」を強いたのではなく、秀次が自らの潔白を証明するために、自死を選んだと考えるほうが自然です。
「歴史」は常に新しい発見があり、更新されていく
また場所に注目すると、興味深い事実が浮かび上がってきます。秀次が切腹した高野山は、京の都から130kmも離れています。山深い高野山では「見せしめ」の効果に欠けることを考えると、秀吉がわざわざ秀次を高野山に追いやり、そこで切腹させたことに疑問符がつきます。
このように歴史、特に日本史は、新説(新たな事実や解釈)が掘り起こされるたびに、塗り替えられていきます。過去の史料に丹念にあたり、歴史に新たな光を当てる、そして過去から教訓を学ぶのが史学の役割と言えるでしょう。
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先生情報 / 大学情報
國學院大學 文学部 史学科 教授 矢部 健太郎 先生
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