「哲学する」ことと生きること
もし、世の中が疑わしいことだらけだったら?
これだけは絶対に正しいというものが、世の中にあるでしょうか。周囲の人たちや自分自身の判断さえ信じられなくなると、日常生活に支障が出てきそうです。実際、古代ギリシアのピュロン主義と呼ばれる懐疑論者たちは、何も判断しないことによって心の平安(アタラクシア)を得ようとしました。では、なぜ彼らはそんなに確実さにこだわったのでしょうか。教科書で読む知識だけから、それを理解することはできません。カントは、「哲学」を学ぶことはできない、学べるのは「哲学する」ことだけだ、と述べています。つまり、自分で考えることが大事なのです。
知の根拠を求めて
ドイツの哲学者フィヒテは、知の絶対的な根拠を強く求めました。といっても、「知には絶対的な根拠がある」と主張したわけではありません。むしろフィヒテは、私たちが生きるこの現実社会は、知に根拠があるような社会であってほしい、だから知には根拠がある「べき」だ、と考えていたのです。フィヒテは、「その人がどのような哲学を選ぶかは、その人がどのような人間であるかによる」と述べています。この言葉は、生きることと哲学することが結びついた、実に哲学者らしい言葉です。
「である」と「べき」について
ところで、西洋哲学では伝統的に、「~である」という命題から、「~べき」という命題は導くことができない、と考えられてきました。一方で、「現実はこうなっている」ではなく「現実はこうあってほしい」と考えるフィヒテのような哲学者もいます。多くの学問分野は、問いに対して「こうなっている」「こうである」という答え方をします。しかし哲学、その中でもとりわけ倫理学(道徳論)では、規範というものについて、言い換えると現実の社会と「べき」の関係について、真剣に考えています。高校の科目としての「倫理」では、多くの哲学者たちの思想を学ぶことができますが、しかし本来の意味での倫理学は、ともに生きるために自分たち自身が「哲学する」ものなのです。
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大阪大学 文学部 哲学・思想文化学専修 准教授 嘉目 道人 先生
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