外国語の辞書のない時代にも、長崎には「バイリンガル」が住んでいた
鎖国時代、どうやってオランダ人と話した?
鎖国時代、長崎だけは、オランダや清(中国)との貿易が許されていました。当時、長崎の出島の日本人たちは、どうやってオランダ人と意志疎通を図っていたのか、疑問に感じたことはありませんか。
実は長崎には、「オランダ通詞(つうじ)」と呼ばれる世襲制の町役人が住んでいて、通訳を行っていたのです。では、外国語の辞書などなく、海外への渡航も禁じられていた時代、通詞たちはどうやってオランダ語をマスターしたのでしょう。
ポルトガル語でオランダ語を覚えた役人たち
鎖国開始の半世紀以上前から、長崎にはポルトガル船が来港していました。その時代、ポルトガルが最初に、アジアでの貿易を積極的に拡大していたので、主にポルトガル語が共通言語として用いられるようになります。長崎でも、ポルトガル語が理解できる人たちが現れました。
その後、江戸幕府はポルトガルとの交易を禁止し、ヨーロッパの貿易国を後から来たオランダだけに絞りますが、ポルトガル語が話せる日本人たちは、ポルトガル語を媒介にしてオランダ語を習得し、やがてオランダ通詞という技能職が誕生したのです。
武力衝突なしに開国できたのは語学力のおかげ
当初、ポルトガル語とオランダ語を混ぜて使用していた通詞たちですが、オランダの科学書を翻訳できるまでに語学力を伸ばし、オランダ語の辞書が日本全域に流通するようになります。江戸末期、列強諸国が日本に目を向け始めると、通詞たちは英語やロシア語なども習得しようと努力しました。
日本開国のきっかけとなった、ペリー率いるアメリカ艦隊の来航で、日本側の交渉人となった堀達之助は、オランダ通詞の家に生まれた町役人で、艦隊の通訳に英語で「I can speak Dutch!(オランダ語なら話せる)」と叫んだと伝えられています。その後オランダ語を介して交渉が進みました。幕府の開国が武力衝突に至らなかったのは、通詞たちの語学力のおかげだったと言えるかもしれません。
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長崎大学 多文化社会学部 多文化社会学科 教授 木村 直樹 先生
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