「言語」から考える、日本と韓国の国際関係
政治指導者・呂運亨
朝鮮半島が日本の植民地だった時代の政治指導者に、「呂運亨(ヨ・ウニョン)」がいます。日本の植民地政策が苛烈さを増した1930年代以降、海外に亡命して活動する指導者が多かった中で、呂は朝鮮に留まって独立運動を展開した数少ない指導者でした。一方で呂は、人間という次元で、日本の政治家や学者とも対話ができた指導者でした。1945年8月の日本統治終了後は、米ソの分割占領の下で朝鮮の政局が右派・左派に分断される中、両派からの度重なるテロにも屈することなく、呂は民族を1つにまとめる努力を続けました。
再評価のプロセス
1947年7月に呂がテロの凶弾に斃(たお)れた時には、十万を超えるソウル市民が街頭で彼の死を悼みました。しかし、朝鮮戦争を経て朝鮮半島が北と南に分断されると、北朝鮮(社会主義)側との対話を図った呂は韓国で否定的に評価されました。その後、韓国の民主化が進んだ1987年以降、イデオロギーによらず民族統一をめざした人物として呂は再び評価されるようになりました。文字を対象としたデータ分析方法「テキストマイニング」で韓国の主要新聞を分析してみると、呂が紹介される記事が1990年代以降に増加し、また好意的な言葉で語られることが増えたことがわかります。
言語の力
こうしたテキストマイニングは、韓国語の記事を対象に行います。日本のメディアでは、韓国の新聞に「過激な反日記事が書かれている」と報じられることがありますが、機械翻訳を使っただけでは、そこに含まれる細かなニュアンスが抜け落ちることがあります。韓国と日本には、異なる歴史、言語、視点があると同時に、共通する価値観もたくさんあり、その双方を知らなければ互いを理解できません。また、ここに「英語」という3つ目の言語を加えることで、「日韓」の相互関係のみならず、国際システムの中の「日韓」という枠組みから両国の関係を考えることもできるのです。
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