江戸時代は本当に「鎖国」していたのか?
江戸時代、長崎以外でも貿易は行われていた
江戸時代には鎖国が行われ、長崎のみで貿易を許されていたと学んだ人が多いと思います。しかし、実際には、長崎のほかに対馬や薩摩、さらには北海道の松前でも貿易が行われていました。対馬と薩摩では、幕府の許可でそれぞれの藩が貿易を独占的に行っていました。対馬藩を介した朝鮮ルートでは、銀の輸出と生糸・朝鮮人参の輸入、薩摩藩を介した琉球ルートでは砂糖の輸入をしていました。朝鮮ルートの貿易額は、一時期長崎のそれよりも上回っていた時もあったのです。
外国が日本と貿易したのは、銀が欲しかったから
外国は、なぜ日本と貿易したのでしょうか。それは、日本の銀が欲しかったからです。当時の東アジアの決済通貨は銀でした。ポルトガル、スペイン、オランダといった国々は、日本で入手した銀でほかの東アジアの国々と貿易していたのです。日本が注目されたのは、当時世界有数の銀の産出国であり、高い精錬技術によって純度の高い銀貨を鋳造していたからであり、オランダが幕府にどんなに厳しい要求を受けても長崎での貿易を維持したのは、まさにそのためでした。ただ、18世紀に入ってからは幕府が銀の国外流出を大きく制限したため、貿易も徐々に縮小していきました。
江戸時代は文明が停滞していたという見方を覆す
「日本は江戸時代に鎖国をしていたため西欧文明と接触する機会を失い文明が停滞し、その遅れを取り戻すために明治時代になって近代化を急がなければならなかった」という歴史観がありますが、この事実から鎖国そのものを疑ってかかる必要があります。貿易データを調べていくと、江戸時代には大阪を中心とする流通ネットワークが完成し、工業化の素地も生まれており、ゆるやかですが着実に発展がみられていました。そういう意味で、明治時代になってからの近代化にとって、江戸時代の役割は非常に大きかったと考えることができます。
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