小野小町や紫式部はどんな顔? 文学にもとづく肖像画の変遷
小町や式部の本当の顔は?
世界三大美女に数えられることもある小野小町ですが、本当に美人だったかどうかはわかりません。在原業平は『古今和歌集』で、小町の歌を「衣通姫(そとおりひめ)の流れをくむ」と評しています。衣通姫とは、その艶色が衣を通し光り輝くようであったとされる、『古事記』『日本書紀』に登場する女性です。華やかな歌からイメージが派生し、小町は美人とみなされるようになりました。同じく、顔はわからないものの伝承からイメージが広がった紫式部は、石山寺に参籠した際、琵琶湖に映る月を見て『源氏物語』を思いついたという伝説から、月や筆とともに描かれました。
伝説よりも実証重視に
時代が下ると、肖像画は伝説よりも実証性を重視して描かれるようになりました。江戸後期から明治にかけてまとめられた伝記集『前賢故実(ぜんけんこじつ)』では、500人以上の歴史上の人物の肖像画が、有職故実(ゆうそくこじつ)の研究に基づき描かれました。この本で、新しい肖像が生み出された人物もいます。例えば紫式部は、本を読みふけったという『紫式部日記』の記述をもとに、書物の山とともに描かれました。併記された略伝も、史料によって裏付けが取れる事項を記すのみとなっています。明治以降も、画壇では石山寺に籠もる紫式部が描かれることがありましたが、教科書に載る肖像画は、実証的に描かれたものとなりました。
小町はなぜ日本を代表する美人になったのか?
式部の肖像のように、人物のイメージは時代によって変化することもあります。小町の場合、大正期に書かれた黒岩涙香(るいこう)の『小野小町論』で、理想の女性像とされました。ジャーナリストであった涙香は、貞淑を是とする当時の女性論と連動させて、小町の恋愛における矜恃(きょうじ)をほめたたえました。国風文化の中核を担った教養ある和歌の詠み手、さらに美女伝説があるという点から、小町は日本を代表する美人ともてはやされ、新聞や雑誌を通して世界の「美女」たちとともに名前が挙げられ、広く知られていったのです。
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東京大学 教養学部 准教授 永井 久美子 先生
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