尊氏・義満・秀吉の支援を受けて生き残ってきた醍醐寺
権力者と深く関わってきた醍醐寺
京都市伏見区にある醍醐寺(だいごじ)は、874年に創建され、現在まで真言密教の教えを伝え続けてきました。その背景には、時の権力者とつながり、経済的支援を受けてきたということがあります。
その権力者の一人が足利尊氏です。南北朝時代、尊氏は南朝の後醍醐天皇に歯向かって九州へと敗走する途中、醍醐寺の僧・三宝院賢俊が勅使として北朝の光厳上皇の命令書(院宣)をもたらし、尊氏は朝敵(朝廷の敵)となることを免れました。この恩に報いるため、尊氏は将軍を補佐する武家護持僧の役目を賢俊に一任します。
厄を引き受け僧侶が頓死
賢俊は将軍を護持する祈禱(きとう)や病気平癒の祈禱を行い、武運を祈りました。賢俊は尊氏の厄年に、自分が厄を引き受ける立願を行いました。そのおかげか尊氏は一年を無事に過ごしますが、賢俊はこの年に亡くなってしまいます。こうした献身への見返りとして、醍醐寺は権力者から多大な経済的な支援を得ました。
また室町幕府第三代将軍の足利義満の頃からは、幕政にも深く関わるようになります。そして第六代将軍を決める際には、僧・満済が、石清水八幡宮の神前でくじ引きにより決めることを提案します。後に足利義教(よしのり)は“くじ引き将軍”と呼ばれますが、その陰には醍醐寺があったのです。
秀吉が醍醐寺復興に一役
満済没後、京都を中心に応仁・文明の乱が起きます。山上にある上醍醐は荒廃、山麓にある下醍醐は五重塔を残して焼失しました。その後、約130年にわたり本格的な復興はかなわず停滞期が続きましたが、安土桃山時代に入り、僧・義演が、醍醐寺の復興を豊臣秀吉に嘆願します。そのかいあって、五重塔や金堂などの伽藍(がらん)が修理・再興されることになり、1598年春、秀吉によって「醍醐の花見」が開かれました。この庭園も秀吉の支援によるものです。このように世俗権力者とのつながりを維持し援助を受けてきたことが、長い歴史の中で寺が生き残った秘訣(ひけつ)といえます。
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日本女子大学 文学部 史学科 教授 藤井 雅子 先生
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