宗教を通じて人間を見る
現実の信仰をどう見るか
本州最北端の下北半島にある恐山(おそれざん)は、死者の霊魂が集まる山と言われています。境内の一角には五体の石仏が並び、おばあさんたちがそこに赤い帽子と涎(よだれ)掛けを掛けています。「この仏さんは何。そして何をしているの」と問うと、即座に「地蔵だよ。幼いうちに亡くした子どもの供養さ」と答えが返ってきました。おばあさんは、亡き子のために一心に祈っています。しかし、なんとこの石仏は地蔵ではありません。五智如来(ごちにょらい)という仏で、仏教的には子どもの守護とは無関係な仏さんなのです。さて、このような場面をどう考えたらよいのでしょう。教義に則った信仰こそが本当の信仰なのでしょうか? それとも教義的には間違った対象にではあれ、一心に祈るおばあさんの行為こそが本当の信仰の現れなのでしょうか?
宗教と宗教学
この世界に神や仏やお化けが存在するかどうか、それはわかりません。しかし、そのような超自然的存在を信じている人々がわれわれの周りにいることは事実です。宗教学の研究のスタートは、まさにその事実にあり、超自然的存在に対する信仰がもつ意味の解明に問題関心があります。ですから宗教学は、神や仏やお化けの実在を証明したり、特定の宗教の教えを布教したりするわけではありません。宗教学は、人々の信仰のあり方を通して人の抱える内面や人が営んでいる社会を、価値中立的に追究していくことをめざしています。
宗教学は人間追究
宗教は歴史を超え地域を超えて普遍的に見られるため、これを研究する学問分野は哲学や心理学、文化人類学や歴史学、そして考古学や美術史・・・・・・と多方面に広がっています。そのような中で、宗教学がほかの研究分野と異なる点は、人々の“信仰”をその研究の入り口に据えている点です。現実の信仰を見ていくと、喜怒哀楽から派生する人間の生きた姿が見えてきます。人々のもつ信仰に注目し、そこに現れる問題をデスクワークとフィールドワークを併用しながら行う人間追究、それが宗教学なのです。
※夢ナビ講義は各講師の見解にもとづく講義内容としてご理解ください。
※夢ナビ講義の内容に関するお問い合わせには対応しておりません。