日朝関係を過去にさかのぼって検証する
過去の史料から外交関係を考える
日朝関係の歴史を考える際、一つに、「秀吉の侵略から後の近世」と「近代」を対比させる考え方があります。徳川時代は、いわゆる朝鮮通信使の来日によって人と人との交流やそれによる文化交流もあり、友好な関係を保っていたのに、幕末・明治になってそれを日本が壊してしまった、というものです。一方、こうした見方は一面的だという意見もあります。朝鮮側の日本に対する認識、日本側の朝鮮に対する認識ということで言えば、対立の芽は近世以前から既にあり、19世紀中葉以降、国際情勢の変化などによって、それが顕在化してきただけではないのか、という見方もできるのです。その根拠となる一番わかりやすい例は、江戸幕府と李氏朝鮮の外交関係による国書のやりとりです。国書の中で、どういう文言を使うか、どういう称号を用いるか、日朝間でもめたのです。
当時の中国、日本、朝鮮の微妙な関係
朝鮮の考え方は、日本との外交関係は、中国を頂点とする華夷秩序(中国が一番上だという思想)の中にあり、日本と朝鮮は中国より下位同士の対等な国、というものでした。ですから、朝鮮からの国書には「朝鮮国王」から「日本国王」へ、とあるわけです。一方、日本側はと言えば、朝廷は政治的には幕府に抑えられて権限がなかったものの、やはり将軍よりも天皇の地位が上と考えられていました。このため、天皇をさしおいて将軍が日本国王を名乗ることはできませんでした。さらに、朝鮮に対する優位意識があり、朝鮮と対等に「国王」を名乗ることを拒否したため、外交的軋轢(あつれき)が生じたのです。
実は、朝鮮側も日本を完全に対等に見ていたわけではありませんでした。朝鮮は、中国と同じ儒教の国であり、日本は儒教をよく知らない、そういう意味では未開の国だという意識だったようです。お互いの感情は、明治まで続いていきました。
このように、日朝両国の交流の歴史は一様ではなく、複雑な葛藤や矛盾もあるので、そのあたりを考えつつ現在と未来を考えていくことが大切です。
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