「不平等」条約を結んだ日本は本当に不利だったのか?
「不平等」条約、貿易では日本が優位だった?
日本は1858年以降、欧米各国に対して治外法権の承認、関税自主権の喪失という「安政の5カ国条約」を結び、「開港」しました。これらの条約は俗に「不平等」条約と呼ばれ、条約改正が行われる明治後期まで、日本は外国と対等な関係を持てなかったと解釈されてきました。確かに法制度的には間違いではありませんが、本当に対等でなかったのかというと疑問が生じます。条約の内容とその後の運用を見ると、不平等どころか実は日本に優位性があったからです。
外国商人は、日本で市場調査ができなかった
「安政の5カ国条約」のひとつ「日米修好通商条約」は、1858年アメリカとの間に結ばれました。通商上での注目点は、貿易港が横浜、長崎、神戸、函館、新潟に限られ、かつ開港場内でも外国商人が商業活動できる地域を「居留地」に制限したことです。これは、何を意味するのでしょう。例えば、外国人が綿織物を売ろうとしたとき、ヨーロッパとは衣服も気候も違う日本では、まずは需要を知ることが不可欠でした。しかし外国人は居留地外に出ることが許されなかったため、必要な市場調査が行えなかったのです。他方、居留地への出入を許可された日本人商人は、外国商人から商品を欲しい分だけ入手することができました。
価格の決定権も日本にあった
逆に日本から生糸を買う場合も、外国人は非常に不利でした。横浜に運ばれた生糸には粗悪なものもありましたが、外国商人は生産地に行けないため、日本人が出す情報を信じるしかありませんでした。さらに、買い手である外国商人が多く、売り手である日本人商人のほうが少なかったため、価格の決定権は日本側にありました。外国商人は日本と良好な関係を継続的に築きたいので、無理難題を押し付けることはありませんでした。日本は法的には不利な条件にありながら、貿易においては有利な取引を行っていたのです。このように、法制度だけでなく、実際の売買記録を見ることによって、日本経済の本当の姿を発見することができます。
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