「変わるべき」は生徒ではなく…… 教育社会学が投げかける視点
あるべき生徒
私たちは教育について語るとき、「教育とはこうあるべきだ」という理想論になる傾向があります。あるべき教育を追求することは「より良い教育」につながる面はありますが、そうした考え方は「あるべき生徒」という規範をつくり出す面もあります。例えば毎日学校に登校して、下校するまでクラス全員で同じ授業を聞き続けられる生徒は「規範的」とされます。一方授業中に立ち歩く生徒や登校しない日が多い生徒は、学校の規範から外れた異質な存在とされて「問題児」や「不登校」といったレッテルを貼られてしまいます。
発達障害を『支援』する前に考えること
生徒が学校の規範から逸脱しているとみなされる要因の一つとして「発達障害」があります。「発達障害がある」とされる生徒もほかの生徒と同様に給食を食べたり、校庭で遊んだりします。そのような場合、その生徒の「発達障害」が着目されることはありません。しかしほかの生徒と同じように授業が受けられないような場面になると、途端にその生徒の「発達障害」がクローズアップされます。多くの学校関係者は、そうした生徒がほかの生徒と同じような学校生活を送れるように支援をします。しかし、そもそも朝から下校時間まで、45分の授業を何コマもじっと座って聞き続けられない生徒を「異質」とみなし、「支援」の対象とする視点は正しいのでしょうか。
制度が障害をつくり出す
「発達障害」が学校運営のあり方にそぐわない場合にのみ問題視されるのであれば、障害は学校という制度がつくり出しているという解釈もできます。「発達障害」をはじめ、さまざまな理由で学校生活になじめずに授業についていけない生徒は、そうした状況に対して「生きづらさ」を抱えている上に、さらにそんな自分を「変える」ように働きかけられています。しかし変わるべきは苦しい立場にある生徒だけではありません。発達の度合いや考え方、特性が異なる生徒が等しく学べる学校づくりをめざすのであれば、既存の学校制度のあり方、授業のあり方を見直すような視点が不可欠なのです。
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