裁判が三審制になったわけ
裁判が飯のタネ
現在、日本では、民事裁判はあくまで公的サービスの一環としてとらえられています。しかし、中世ヨーロッパにおいては、裁判がビジネスとして立派に成立していました。なんと、裁判権は質入れされるほどの“金のなる木”だったのです。
もちろん、はじめから裁判とビジネスが直結していたわけではありません。ローマ時代には裁判官の懐が潤うシステムにはなっていませんでした。当時、裁判官の仕事は政治家になるための出世街道だったので、むしろローマの裁判官は、報酬など受け取らず、世論に受けの良い裁判をしようと心がけていました。
他方、ゲルマン人は自力救済を基本としていたので、揉め事が起これば、自ら武装し、決闘によって決着をつけていたのです。決闘の際には服装、武器や太陽の向きまで全く同じ条件にして闘ったので、本来は決着がつかないはずと考えられました。それにもかかわらず勝敗が決定する。それが「神が微笑んだ」、すなわち、「神が決めるもの」という解釈へとつながっていきます。
しかし、11世紀頃から教会の権力が増すと、このような神を試すような決着のつけ方は良くない、と考えられるようになりました。そこで決闘による自力救済から、裁判官が仲介する裁判でトラブルを解決するという形へと推移していったのです。
三審制の起源
裁判官が仲介するようになると、仲介料として訴訟額の3分の1が裁判官の取り分となったので、裁判所は訴訟の受け付けを歓迎するようになります。裁判官は訴訟件数が多いほど収入が増えるので、たとえほかの裁判所で既に決着がついた事例についても再度裁判を行うことを互いに認めていました。
そうは言っても、何度も裁判を繰り返すのは好ましくないという考えも生まれてきます。そこで、「最大5回までにしよう」、「いや3回までに」と議論しているうちに、「裁判は最大3回まで」に落ち着いたのです。この「3回まで」が、今日の三審制につながっています。どんなことでも、それが定着するまでには、人間の営みやその歴史が関わっているものです。
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