明治時代の日本人画家はフランスをどう見ていたか?

明治時代の日本人画家はフランスをどう見ていたか?

イタリアからフランスへ

明治時代の日本では、西洋絵画の手本がイタリアからフランスに移行した時期があります。日本初の美術学校である工部美術学校では、イタリア人のフォンタネージを講師として招いていました。イタリアでは暗い画面構成が主流だったため、日本における初期の西洋絵画は色調の暗い絵が多く見られます。しかし画家で政治家でもある黒田清輝がヨーロッパ政治の中心地であるフランスに法律を学びに行った際、現地で外光派と呼ばれる明るい画面構成の絵画を学びました。黒田のような留学生が日本にフランス絵画の手法を持ち込み、西洋絵画の手本が変化していったのです。

坂本繁二郎のフランス体験

明治時代に活躍した画家のひとりに坂本繁二郎がいます。坂本は日本で地に足の着いた絵画を描きたいと考えており、国内で自らの絵画様式を確立していました。しかし明治期の日本は西洋の技術を導入することに重きを置いていたため、周囲から留学を勧められ、フランスで西洋絵画の技法を学びました。留学中、坂本は自動車の機械音に抵抗を感じるなど、ヨーロッパ近代社会に対する違和感を持ちました。こうした坂本のフランス体験は、明治期の日本人が直面した、近代社会に対する葛藤の一例です。

自然に対する日仏の価値観

坂本は日仏の自然に対する認識の違いを感じていました。坂本は生まれ育った福岡県久留米(くるめ)市を原風景に、自然の中に潤いを見出すことを得意としていましたが、フランスに対しては「乾燥しておりすべてが人工的」だと述べています。ヨーロッパでは、自然は人間が解き明かすべき科学の対象として考えられていました。一方日本人は、自然の中に人間が一体化していると考えており、共存する対象としてとらえています。
坂本は帰国後に『放水路の雲』という作品で日本の自然に内包される潤いを描きました。西洋の技法をそのまま持ち込むのではなく、フランスを知ることで明確になった、日本らしい自然を強く打ち出そうとした作品だと考えられます。

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宮城学院女子大学 学芸学部 人間文化学科 教授 今林 直樹 先生

宮城学院女子大学 学芸学部 人間文化学科 教授 今林 直樹 先生

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人間文化学、美術史学、国際関係論

メッセージ

教養を身につけることは、人生においてとても大切だと思います。なぜ社会にはルールがあり守らなければならないのかなど、教養があればわかることはたくさんあります。将来の就職に有利かどうかといった目先の利益だけで進路を選ぶのではなく、豊かな教養を得て人生を送るためには何を学ぶとよいか、という視点でも考えるとよいでしょう。
大学の勉強や人生の評価基準は、テストの点数に表れるような知識の有無だけではないはずです。ぜひ長い目で見て、実りある生き方につながる学びを大学で経験してください。

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