自己表現はSNSから純文学へ
自分自身に向き合う
SNSは、自分の日常を切り取った文章や写真を投稿することが一般的です。自分自身を記録するツールである一方、他人の目を意識するあまり、承認を得ようと過度の演出をすることもあります。しかし、それは本当に自分が言いたいことなのでしょうか?
実は戦前の文学者にも、同様の考えがありました。大正時代には、読者の多い新聞や雑誌に掲載するための大衆文学が盛んになります。これは、読者という他人を喜ばせる娯楽としての小説です。これに対して、あくまでも作者自身が書きたいことを追い求めて表現したのが純文学でした。売れ行きも批評も気にすることはありませんが、逆に自分自身で厳しく文章に向き合うことが求められました。
伝えるために
純文学の代表的な作家の一人が志賀直哉です。「小説家の神様」と呼ばれ、芥川龍之介や谷崎潤一郎といった同時代の名だたる文豪たちも、志賀の文章には敵わないと語っていたほどです。その文章は非常に簡素であり、無駄なものが一切ありません。文章を書く際に、カッコいい表現やオシャレな表現を意識してしまうと、飾りを付けたり、くどい言い回しに陥りがちです。しかし、志賀は本当に必要なことを伝えるには、余計なものはすべて取り払った方が良いという考えでした。他の作家なら長々書いてしまう文章を、志賀は驚くほど短く表現しています。それは物事の本質を見抜く目があってはじめてできることなのです。
純文学の創作
志賀直哉の『和解』は、長く対立してきた主人公と父親が和解するプロセスを描いた小説です。主人公の視点だけで物語が進んでいくにもかかわらず、父親側の心情も伝わってくるという、非常に優れた文章を味わうことができます。自分とともに、他者が正しく捉えられているのです。
純文学の文章を読むと、人間は言葉だけを使って、大切なものをこんなにも表現できるのかと驚くとともに、その可能性に勇気づけられるかもしれません。誰もがしっかりと自分に向き合うことで、純文学と言えるような自己表現ができるはずなのです。
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