不条理な現実を言葉でどう伝える? 抒情詩で戦った詩人
詩は美しさだけではない
書き手の感情を主観的に伝える抒情詩(じょじょうし)は、美しい景色やわくわくする喜びや悲しみといった私的な感情を描いているイメージが強いかもしれません。しかしときには現実の過酷さや不条理さを訴えるために抒情詩が作られることがあります。
ホロコーストを伝える詩
ナチスのホロコーストを体験した、パウル・ツェランという詩人がいます。ツェランはホロコーストによって不条理な死を遂げた人々の記憶が失われないよう、ドイツ語の詩で後世に伝えようとしました。しかし出来事を淡々と述べ、「哀しかった」と主観的な思いだけを書いてもその出来事の本質は伝わりません。ホロコーストを経験していない人にも現実の不条理さを伝えるためにはどうしたらいいか、苦しみもがいた末に、ドイツ語の言葉自体を「解体」することになりました。既存の語彙や文法では、不条理な世界をそのままに映し出すことはできなかったのです。
言葉で言葉を乗り越える
詩人は言葉で何かを伝えるために、独自の表現を生み出してきました。ツェランによるドイツ語の解体もそのひとつです。ドイツ語はホロコーストの行為者であるナチスも使用していた言語です。同じドイツ語を使えば、ナチスが言葉巧みに作りあげた世界と何も変わらない世界をまた創り出してしまう、とツェランは考えました。しかしドイツ語でなければナチスの世界の記憶を正しく伝えることもできないのです。それゆえあくまでもドイツ語を用いて、しかしナチスの言語とは異なる言葉で、ホロコーストの真実を伝えようとしたのです。
ツェランの詩は難解で、ドイツ語話者でも簡単には理解できません。また、詩は空白の多い文学作品なので、読む人は自身で様々にイメージを膨らませて考えなければなりません。彼の詩に向き合うことは読者一人一人がナチスだけでなく、他者に対してその人間としての尊厳を奪う不条理な出来事について、能動的に考えることにつながります。それは今日の混迷した世界に生きる私たちにとって非常に重要なことでしょう。
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上智大学 文学部 ドイツ文学科 教授 中村 朝子 先生
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