徳川幕府と仏教の関係とは?
徳川幕府の祈祷寺
東京上野にある天台宗の寛永寺は、徳川幕府のために武運長久などの祈祷を行う寺(祈祷寺)であったことで知られています。実は、徳川幕府にはもう1つの祈祷寺がありました。真言宗の護持院です。護持院は幕府の崩壊とともに消滅してしまいましたが、同じ敷地内にあった池袋の護国寺には、膨大な量の文献資料が残されています。資料の中には1680年から1900年あたりにかけて記された護持院の日記があり、これらの研究から、2つの祈祷寺は全く違った役割であったことがわかってきました。寛永寺は国家の安全など政治的なことを、護持院はお祝いごとや病気平癒など将軍家族の生活に密着したことを、それぞれ担当していたことが明らかになっています。
隆光の真の姿を検証
元禄時代に護持院の住職であった隆光は、5代将軍綱吉と親密な関係を築き上げました。そのため俗説では、悪法「生類憐みの令」は悪僧隆光が綱吉をそそのかしたからと思われていました。ところが、隆光の日記や幕府の公式日記などの資料を合わせて見ると、隆光が政治に介入しないことや、身分をわきまえた行動が浮かび上がります。そもそも隆光が悪僧だといわれたのは、護持院の立場を守るためのロビー活動を活発に行っていたため、悪目立ちをしてしまったことが原因なのです。そして、後に隆光に反感を持っていた儒学者が書いたゴシップ記事が発端となり、悪いイメージが現代にも伝えられてしまったのです。
桂昌院や大奥の実態を研究
将軍家から護持院への祈祷の依頼は大奥を通じて行われていたため、護持院の資料には大奥に関する記述が含まれます。実は、大奥の実態はいまだ不明な点が多く、護持院の研究を通して解明されることも期待されます。また綱吉の母で護国寺を建立した桂昌院は、最下位の身分に生まれましたが女性として最高の地位にまで上り詰めました。しかし彼女の前半期を伝える記録資料はほぼ残っていません。桂昌院にゆかりのある京都の善峯寺に残された記録から、彼女の人物像を明らかにする研究も取り組まれています。
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大正大学 文学部 歴史学科 准教授 櫛田 良道 先生
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