文化交流と国際対立の「日本・ドイツ交渉史」をひもとくと……

文化交流と国際対立の「日本・ドイツ交渉史」をひもとくと……

交流のはじまりは?

2011年は日独交流150周年の年です。これは1861年に、日本とプロイセンが修好通商条約を結んだことによります。
当時の日本は、200年以上の鎖国を終えて、アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなどとは接触を始めており、西洋の思想、文化、技術が紹介され始めていました。ドイツの技術や文化も知られるようになりましたが、その影響は初めは強いものではありませんでした。

転換点

幕末から明治初期の日本は、分野別に英米仏独から文物を取り入れていました。しかし、明治14年の政変を契機に、憲法をドイツ式にする方針が定まり、以降、法律関連を中心にドイツ熱が急速に高まるようになります。医学分野ではすでに明治2年からドイツ式が主流でしたが、ほかにも、文学、哲学、音楽などでドイツの影響が強くなっていきました。

文化交流と戦争

政治・学問・経済などで日本を先導したエリート層が、ドイツ語やドイツ文化に親しんだ場所の一つが、旧制高校(明治19年から昭和24年までの、大学の前段階の高等教育機関)でした。旧制高校の生徒の隠語の中に「ゲル=お金」「ゾル=兵隊」など、ドイツ語由来のものが多くあるのも、そのあらわれでしょう。マルクス主義などの政治思想に触れあうのも旧制高校でした。
しかし日本とドイツは、第一次大戦では敵国同士となり、昭和12年からの日中戦争でも初め中国を指導したのはドイツの軍事顧問団でした。ソ連に対抗するための日独(伊)防共協定が結ばれたあと、ドイツは独ソ不可侵条約を結び、またその後ソ連を取り込むことを予定して日独伊三国同盟が結ばれると、しばらく後にドイツは突如ソ連に攻め入りました。文化面では近しい存在であったドイツから、日本は手痛い裏切りの仕打ちを幾度となく受けることとなりました。
文化交流があっても覚悟を決めた国家同士の戦争を防ぐことはできません。しかし、ドイツを破っても日本がドイツを見下すことはできなかったように、文化上の上下関係は、戦争の勝敗によっても覆ることはありませんでした。

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東京大学 教養学部 基礎科学科 教授 岡本 拓司 先生

東京大学 教養学部 基礎科学科 教授 岡本 拓司 先生

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日本史、ヨーロッパ史、国際関係論

メッセージ

高校生くらいの頃は、自分の欠点を直そうと思って思い悩むものではないかと思います。私はそうでした。しかしこの年齢になって、はっきりわかりましたが、高校生くらいまで直らなかった欠点は、おそらく一生直らないでしょう。欠点を無理に直そうとせず、場合によっては欠点をさらに伸ばして、どうぞ気楽に、みんなに迷惑をかけながら生きていってはどうでしょう。どうせ人生は一度きりですし、直らないものに悩む時間はありません。周りを見渡せば、ほら安心してください、みんなやっぱり欠点だらけでしょ。

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